演劇パビリオンARCHIVES

メンバーより

  • 多田淳之介 /
  • 野村政之 /
  • 藤原ちから /
  • 横井貴子

多田淳之介

演劇センターF誕生の背景には、ここ十年ほどで起きている日本の演劇の動き、特に「ワークショップ」と「劇場」の関わりが大きいと思っていて、その日本の演劇の動きの一つとして誕生すべくして誕生したとも思っています。以前の演劇ワークショップは俳優の技術向上や演出家独自の演技論伝達の手段、いわば演劇教室でした。現在の演劇ワークショップは演劇を教えるものではなく、コミュニケーションやコミュニティについての体験を作る場として機能しています。演劇を使ったコミュニケーションワークショップと言った方がわかりやすいかもしれません。演劇は人が人に何かを伝えるという行為の原点です。相手に何かを伝えるにはどうすればいいのか考えた時点で、人は演じ始めています。伝えること、表現することは、演じることなのです。演劇がコミュニケーション教育やコミュニティ創造に向いていることは世界的にも証明されていますし日本でも少しずつですが教育や地域コミュニティにも取り入れられ始めています。
コミュニケーション型のワークショップの普及により、演劇の社会的有用性、芸術や表現が身近なものだということも認知され始めましたが、ワークショップを行うアーティスト側にもその影響がありました。僕や市原幹也もその一人と言えるでしょう。そもそも作品を観客に見せるという行為自体もコミュニケーションの一つです。人と人とのコミュニケーションの延長線上に演劇作品もあり、一対一のコミュニケーションから舞台と客席のコミュニケーションまでのどの地点を「作品」とするか、アーティスト側の選択肢も増えました。例えばアーティストと観客が一対一で会話するということや、観客同士の雑談も演劇作品として成立するのです。

『パビリオン』で上演されていた『日常の上演』は、まさにそういった作品でした。ここでいう「日常」とは「コミュニケーション=演劇」と言い換えることができるでしょう。「演劇」という言葉が「上演」をイメージさせるのが分かり難い原因でもあるのですが、音楽が「音楽=演奏会」ではなく「音楽=音と人の間にあるもの」ならば、演劇も「演劇=上演」ではなく「演劇=人と人の間にあるもの」であり「演劇による作品=演劇作品=上演」なのです。

そして「劇場」です。バブル期に乱立した箱モノの有効利用という後追い要素も強いですが、いわゆる貸館業務中心ではなく地域に根ざした事業展開をする劇場が生まれてきました。そして劇場が本来持つ地域の交流広場、コミュニケーションの場としての機能を取り戻し始めました。いわば劇場に人が集まること自体に演劇性があり、逆に劇場が人の集まる場所なのではなく、人が集まればそこが「演劇の場=劇場」だと言ってしまうこともできるでしょう。『パビリオン』で起きていた来訪者同士の会話、構築されていく関係は、演劇が行われる場そのものだったと言えます。

市原幹也が演劇センターF以前に北九州のアイアンシアターで行っていた活動は、この日本の演劇に起きていた動きの最先端でした。だからこそ北九州市の小さな商店街の劇場に全国から様々なアーティストが集って来たのでしょう。世界的に見ればこういった動きは当たり前とも言えます。人が何かを伝えようとすれば演劇だよね、人が集まれば劇場だよね、というのも当たり前すぎて、いやいや大切なのは「その先」でしょ、というのが、現代における演劇のスタンダードです。演劇センターFの活動が世界水準だとか言いたいわけではなく、大事なのは、あくまで、歩みは遅くとも、日本の演劇の流れから生まれた演劇が、結果的にワールドスタンダードだった、ということが大事で、それが僕が演劇センターFに関わっている理由でもあります。

芸術文化後進国と言われている日本でも、ようやくここまできた、ようやく「その先」に行けるかもしれない。それは演劇センターFの背負っているミッションだとも思っています。こういった演劇が日本演劇界を革命的に変えるということは無いでしょう。新しい形態とかではなく、当たり前の形態ですから。ただ「演劇=人と人の間にあるもの」の持つ当たり前の力によって、日本社会が変わるという可能性はあると思っています。

多田淳之介(ただ・じゅんのすけ)

演出家。東京デスロック主宰。埼玉県富士見市民文化会館キラリふじみ芸術監督。古典、現代劇、パフォーマンス作品など幅広く手がけ、俳優、観客、時間を含めたその場での現象をフォーカスし作品化する。地域、教育現場、海外での製作など積極的に行い、2010年には公共劇場の演劇部門の芸術監督に国内歴代最年少で就任。2013年には韓国の東亜演劇賞を外国人演出家として初受賞。四国学院大学非常勤講師。セゾン文化財団シニアフェロー対象アーティスト。

野村政之

演劇センターFって何なんですか、という質問に対して、私はこう答えてきました。
「劇場のロビーをやっている場所です。街が劇場(舞台)だとして、ロビーがF」
この説明でFのことをすべて言い表せているとは思ってませんが、要点はおさえていると思います。内と外がひっくり返る、その支点にあるのが、演劇センターF。想像してみると、これはとても面白い。Fに入る。そして街に上演を観に入っていく。外へ。そこで、Fに入る前とは違って見える日常の上演がある。劇場。
横浜・黄金町での数ヶ月でそれが完全に実装できたかどうかはわからないけれど、この想像はけっこう愉しくて、Fのような場所が他にもできていったらいいとは今でも思います。

もう一つ、演劇センターFについての話し合いから想像したのは、これは移転ができるシステムだということ。芸術監督の市原くんはもともと、北九州市で「枝光本町商店街アイアンシアター」をやっていました。地域の劇場であるアイアンシアターのなにかを蒸留して、抽象化して、横浜に移転したものがFだ、という見方もできます。市原くんの振る舞いを見ていると、僕なんかには見えないところに線をひく、枝光で鍛えられた判断基準を感じます。また例えば、劇場の中で作品を上演するのではなく、街に出て、そこに暮らす人々の「上演」を見て回る演劇作品『枝光本町商店街』と、今回Fの上演演目として創られた『はつこひ商店会物語』の間には、そうした側面、共通性が見いだせると思います。黄金町でのFも有意義だったと思うけど、今度はどこに飛んで行くのか、どこかに飛んでいけたら面白いと思っています。

ちなみに、この「演劇センター」というコンセプトは、直接には岸井大輔さんが『東京の条件』という著書の中で示したものを借りています。他方、1960~70年代には、佐藤信さんを中心として「演劇センター68/71」という集団が活動をしていました。これらにFを加えて、「演劇センター」という考え方から何が引き出せるのか、機会をみつけて考えてみたい。「劇場」や「演劇」を考える上で大事な視点をもつことができるのではないかと思っています。

最後に、今回Fをやるときも考えていて、今でも自分でよく考えることについて書きます。演劇とその観客の関係性についてのことです。演劇が「作品」という〈商品〉と「観客」という〈消費者〉の関係に閉じ込められているのではないか、という問いについて。アーティストは自分を表現することに終始し、観客は自分という存在の社会性を捨ててしまう、この関係について。作品が「面白い」「つまらない」といった判断から出発するのではなく、演劇をきっかけにして、何かの議題を引き出し、対話するようなことができないか。そのために、いくつかの針路がありますが、一見なんでもないような日常の社会生活をひとつの演劇としてじっと観ることは、ひとつきっかけになると思っています。現実によくあることをよくよく観ることを通して、あり得ないことを発見したり、現実に何かを引き起こすためにアクションを仕掛けたりする。出来事の〈参加者〉として、アーティストと観客がたまさかある立場に分かれて、またノーサイドになる、そして自分と社会を見直す、というような、演劇の時空間。
演劇センターFの活動は、今書いたような逆転を、ゆるやかに引き起こそうとしている、朗らかな挑戦なのだと思います。

野村政之(のむら・まさし)

演劇制作者。1978年長野県生まれ。劇団活動、公共ホール勤務を経て、2007年こまばアゴラ劇場・劇団青年団制作部に入る。並行して若手中堅の演出家の公演にドラマトゥルクなど様々な形で参加。2012年、市原幹也と共同で『LOGBOOK』を創作。アサヒ・アートスクエア運営委員、桜美林大学非常勤講師。2014年10月より沖縄県文化振興会プログラム・オフィサー。

藤原ちから

市原幹也から声をかけられ、演劇センターFを共に立ち上げることになったのは2014年の正月前後。そこから構想を練り、具体的な企画を立て、関係各所と交渉していく……というプロセスにおいては、摩擦が生まれることも当然あったし、なんといっても体力が必要だった。とはいえ『演劇パビリオン』が終わった今となっては、楽しい記憶しかない。寝れば忘れるという楽天的な性格のせいかもしれない。周囲の拠点との連携をもっと深めたかったという反省はあるけれど、雑多な人々が「であい、まざり、めぐる」空間をつくることはできたと思う。少なくとも、あの場がなければ生まれなかった出会いが多々あったのは間違いない。
『演劇パビリオン』終了と共に、黄金町の拠点はたたむことになったけれども、そもそも演劇センターFはたゆたう「船」として、その時々で、仮りそめの停泊地を探し続けることになるだろう……と最初からイメージしていた。別の港に行って、またいつかご縁があれば戻ってくればいい。べったり蜜月というわけでなくても、関係を続けていくことはできるはずだ。もちろん時には情もうつる。しかし一時の別れを嘆く必要はない。涙は、また会えた時のためにとっておけばいい。

時をさかのぼってみる。2014年の春、大岡川が桜色に染まる頃、わたしは「演劇センターFを立ち上げることで、新しい演劇のカタチを世に示すのだ!」と息巻いていた。「東京の消費文化から距離をとっても生きていける、そこにも演劇はある」だとか、「演劇は劇場の中にだけあるわけではない」とか、示すこと。そこから、アート・シーンや演劇史と切り結ぶに足るだけの言説を構築しようという野心を抱いていた。

しかし実際にFでの活動を始めてみると、そうした使命感はいつのまにか後退していった。というのも、自由なカタチの演劇がすでに予想以上に浸透している……という手応えをひしひしと感じることができたからだ。例えば、「エスニックナイト」をただのパーティではなくワークショップと捉える人が現れた。大道寺梨乃の『ソーシャルストリップ』では、観に来ていた子どもがほとんど出演者と呼んでもいい状態になっていた。鳥公園のワークインプログレスでは、到底話の合わなそうな人たち同士がアフタートークで言葉を交わしていた。日夏ユタカの「競馬しぐさ」や、岸井大輔の大岡川源流シリーズでは、参加者たちがみずから劇的な役割を演じ始めた……。演劇のイメージは、ずいぶん柔軟なものになった。派手な大花火もいいけれど、日々の生き方を豊かにしていく生涯の伴侶としても、演劇はこれから必要とされていくだろう。

さて実はもうひとつ、わたしの使命感を後退させた大きな要因があった。子どもたちの存在である。彼らは夏休みにFにやってきた。最初、それは期間限定のもので、二学期が始まれば足も遠のくだろう、ちょっと寂しいね、ハハ……などとお気楽に考えていた。甘かった。いざ学校が始まったその日の放課後、子どもたちは当然のように元気いっぱいの笑顔でFに現れた。しかも、友だちを引き連れて!

こうして演劇センターFは、子どもたちの溜まり場と化した。彼らの存在を無視して活動することは困難になっていった。Fは彼らを排除しない道を選択した。わたしもそれには同意したけれど、あの場所を保育園にするつもりはなかった。我々の仕事はあくまでも演劇の拠点をつくることなのだ……。けれどもこのイレギュラーな異物たちは、わたしの狭い了見をはるかに凌駕する新風をFに吹き込んでくれた。わたしは何度も、彼らが劇的なミラクルを起こすのを目撃した(その一部は「日誌」にも記されている)。毎日が新鮮だった。そして武田力のチームや、なんばしすたーずと愉快な仲間たちが、子どもたちのことを邪魔がらず、むしろプロジェクトの中に取り込んでしまったことにも驚いた。

次第に明らかになったのは、子どもたちの多くが移民の子であるという事実だ。少しばかり口が悪いし、よく「問題」を起こしもするのだが、根はすごく良い子たちであり、深刻な問題は起きなかったとわたしは思っている。どうだろう? 1対1で相対するかぎり、あのイタズラ好きの小さな天使たちは、わたし(たち)の声をちゃんと聴き届けてくれたではないか。黄金町の拠点を引き払った今、あの子たちが元気でいるかどうか、少し心配ではある。日本語が母語ではない親も含めて、周囲とのコミュニケーションは簡単ではないだろう。せめてアジール(避難所)があってほしいと願う。もしも市原幹也がこのあたりにまた拠点を持つことになったら、彼らとの新しい関係もまた始まるのではないだろうか。

演劇センターFの今後の予定は未定である。中心メンバー5人のソロ活動を報告し合っていくだけでも面白いんじゃないかと思っている。横浜、北九州、沖縄、ソウル……各地の点がFという「船」によって結ばれていくことになるだろう。Fは「海外活動報告会」も行ってきたが、そうしたレポートの必要性はますます増していくに違いない。もはやフィールドは日本だけではない。アーティストの移動とネットワークは海を越え、国民国家という枠組みも越えていく。わたしは今、日本列島をあらためて「Archipelago(群島)」の一部として再認識してみたい欲望に取り憑かれている。例えば沖縄のすぐ先に台北や香港やマニラがあるのに、別々の国家に所属させられているのはまったく奇妙なことだ。点と点が新たな線で結ばれていくことで、未知の世界が見えてくることになるだろう。

藤原ちから(ふじわら・ちから)

編集者、批評家。BricolaQ主宰。1977年高知県生まれ、横浜在住。武蔵野美術大学広報誌「mauleaf」、世田谷パブリックシアター「キャロマグ」などを編集。舞台芸術について様々な記事を執筆。共編著に『〈建築〉としてのブックガイド』。共著に『演劇最強論』。また、ゲームブックを手に都市や半島を遊歩する『演劇クエスト』を各地で創作している。
http://bricolaq.com/

横井貴子

「演劇パビリオン」は、2014年8月1日から11月3日までの3ヶ月間、「黄金町バザール2014」という現代美術の祭典の中で開催されました。しかし、実際には、2014年4月から始まっていたプロジェクトといっても過言ではないと思います。「演劇パビリオン」の企画の数々は、積み重ねてきた地域との関係作りや、黄金町や横浜市のリサーチ、トライアル事業の上に組み立てられたプログラムでした。

 4月には、場所の稽古(トライアル)として場づくりをスタートしています。このトライアル期間に、リサーチや関係構築のためのイベントを実施。これにより、地域や演劇界のニーズや課題、どんな連携を築けるかが見えてきたのです。
例えば、劇作家の岸井大輔さんと行った「#大岡川桜」シリーズでは、横浜市を横断している大岡川を通じて、歴史や脈々と受け継がれる土地の精神を再発見しました。これは、黄金町でプロジェクトを行うベースとなるような経験でした。また、場づくりをトライアル的に行ったことで、このプロジェクトにどんな空間が望ましいか検討することができました。《キッチンがあること》《どこからでも出入りできる交差点》《縁側的スペース》がある空間がいいという意見は、「演劇パビリオン」の拠点のリノベーションプロジェクトでも活かされています。他にも、私が企画した「エスニックナイト〜エスニック料理をつくってたべる〜」というワークショップでは、リサーチで知った横浜橋商店街の存在が、誕生の背景にあります。横浜橋商店街は、韓国やベトナム、タイ等の食材店が軒を連ねており、多国籍なコミュニティの日常を支える台所です。商店街で買い出しをして、拠点で料理を作ることで、黄金町に流れる空気を色濃く体験するワークショップとなりました。

 こうして、このトライアルの期間を、ゆっくりとした手つきで行えたことが、8月からの推進力となっていきました。「演劇パビリオン」では、場作りと多領域にわたるイベントを数多く実施しています。はじめは何もなかった拠点も、次第に来場者の痕跡や物が増えていき、最後にはおもちゃ箱のような、ごちゃごちゃとした空間となりました。ある小学生が書いた絵は、買いたいというお客様が現れ、他の場所へと渡っていきました。場に溜まった物や痕跡には、物語が詰まっています。それを、俳優やお客様の身体を介して、来場者と遊ぶ。とってもユーモラスでキュートな物語たちは、演劇センターFのレパートリーになったと言えるでしょう。

 バザールには国内外からの来場者も多かったため、演劇センターFの空間は時に北海道やドイツになりました。なかでも、子供たちは、演劇センターFを宇宙に連れて行ってくれる存在でした。彼らには、私の想像を越えるような光景を、何度も見せてもらったのです。拠点で起きたことは、日誌として記録されました。今回は演出ノートという形で公開します。ぜひ読んでみてください。

 「演劇パビリオン」での一つ一つのイベントの規模はけして大きくはないですが、小さな変化や反応が折り重なり、領域の垣根を押し広げる活動となったと思います。「演劇パビリオン」で蒔いた種たちは、どこで芽吹いていくのでしょうか。全く予期しないどこかで、芽吹いていくことを望んでいます。

横井貴子(よこい・たかこ)

制作者。1992年、神奈川県生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒業。大学在学中から、ロロや風琴工房などの公演制作を担当し、『えだみつ演劇フェスティバル2013』にフェスティバル事務局として携わる。2014年4月には、演劇センターFの立ち上げに制作者として参加。黄金町バザール2014内では演劇センターF『演劇パビリオン』を展開。2015年からはフェスティバル/トーキョー実行委員会事務局に務める。