演劇パビリオンARCHIVES

参加者からのメッセージ

  • アーティスト /
  • スタッフ /
  • 観客

阿部太一(スタッキー)

演劇を意識的に観だしてからまだ日は浅いですが、よい舞台を観た後に起こる「ここには何かとても大切な物がある」という感覚は何なのか? そして、そんな感覚を沸き立たせてくれる演劇とは何者なのか? 演劇パビリオンの企画を聞いた時、その疑問の一端が解けるのではないか、という期待を持ちました。演劇と日常がせめぎあう場所だからこそ、より鮮やかに演劇的なものが浮き上がってくると思ったからです。しかし、パビリオンの会場ではいつもワイルドな黄金町の子供たちが明るくも混沌としたな空気を作り出し、わずかながらも参加したイベントでは観客と俳優という、自分が安心して演劇に身を委ねられた前提すらも外されました。演劇は幅広い、というと身も蓋も無いですが、バビリオンを通して演劇という深い森の入り口に立たされ、恐々しつつワクワクしている、というのが今の正直なところです。

→ プロフィールはこちら

大道寺梨乃

2014年2月の大雪の横浜でわたしと友達のセバスチャンは演劇センターFのプレゼンをききにいきました、ひととおりプレゼンをきいた後、広さはどのくらいありますかー?と質問したところから実は全ては始まっていたようで、8月の終わりから1ヶ月ちょっと週1で黄金町に通って初めてのソロ作品をつくりました。Fの2階の小さい部屋は本当に小さかったのですが、その部屋の小ささも、外から入ってくる街頭の明かりも、京急線の電車の音も全てがわたしのみかたになってくれて、関わってくれたひとみんなに気に入ってもらえる作品になったと思います。いまわたしは冬のベルリンの空港で飛行機を待っているところです。「ソーシャルストリップ」は2013年夏のベルリンでつくる事を決めたのが始まりでしたが、あの場所との出会いもこの作品の始まりになったと思います。いつも出発点はいろんなところに点在していて(この作品をつくっている中でもいろんな人の中に出発点をみました!)これからこの作品にもわたしにも関わってくれた人たちにもたくさんの変化が訪れるとおもいますが、その場所がなくなっても、離ればなれになっても、出発点は変わらずいつもデフォルトで存在するのだと思うとすごいです!Fのみなさま・かかわってくれたみんな本当にありがとうございました。

10月に演劇センターFで「ソーシャルストリップ」を上演、2015年2月には石川町(英語ver)と池袋でも再演しました。

→ プロフィールはこちら

岡本憲昭

僕は演劇の人間でありません。 ここ最近、演劇に興味に持ち始めた。そんな人間です。
もちろん今では演劇が大好きです。

僕は演劇パビリオンで市原さんと作品を作りました。
作品を作るうえでたくさん話をしました。
僕らにあった共通の興味は「記憶の記録」だったように思います。
僕らは演劇パビリオンとその周辺の「記憶の記録」をすることにしました。

終わってみて、この行為は何なんだろうと考えました。
結論が分からないので、この「記憶の記録」を僕らは続けます。
僕も市原さんも何となくしっくりきているので。

演劇パビリオンは本当に演劇パビリオンだったと思います。
次に行われる時、一体どうなるのか。今から楽しみです。
その頃には、僕らの「記憶の記録」の答えが見つかるといいなと思います。

→ プロフィールはこちら

落雅季子(BricolaQ)

「演劇」
という言葉から一般的にイメージされるものを考えてみる。演劇は劇場で座って観るもの。演劇は脚本がよく練られているもの。演劇は感動するもの。黄金町バザールの期間に演劇センターFを訪れた人の中には、そういうイメージを持っていた人も多かっただろうと思う。「ここは演劇屋さんなんです。」というスタッフの説明に、きょとんとしている人をずいぶん見た。Fは数々のイベントを行う中で、演劇とは時に筋書きのない日常であり、泥くさい試行錯誤の一部始終であり、その土地に暮らす人や町の時間を見つめる新たな視点を得ることだと示していった。
そんなFには子どもがよく来ていた。大人が持つ「子ども」についての無責任なイメージもやっかいである。「子ども」とは純粋で、無邪気で、悩みがなく、自由がたくさんある……など。しかし実際の子どもは、分別がなく、権力に迎合し、理不尽な大人に縛られて悩み、しかし忘れっぽいのですぐ遊びに夢中になって道路に飛び出したりする。少なくともFで出会った子どもたちはそうだった。そして彼らはそれゆえ魅力的であり、目が離せなかった。Fで生まれた演劇もそうだ。はじめに書いた「いわゆる演劇のイメージ」の進化版でも発展途上版でもない、演劇のさまざまな可能性・ひろがりの新しい形として、時に大人の予想をどえらく裏切る子どものように存在していた。 忘れていたが、子どもとは神出鬼没なものでもある。しばらく姿を見せなかった子が、数週間ぶりに来て何事もなかったように遊んでいくこともFではよくあった。だから演劇センターFもきっとまたどこかに現れるだろうと、わたしは何となく信じている。

→ プロフィールはこちら

岸井大輔

私たちは忘却の国にいる。演劇センターFは、そんな中で成立していたと思う。森村さんは本を助け出したけれど、私たちは演劇を救済できるのか、そして、もちろん、救済するべきなのか。このように問うことが、そもそも陳腐としか響かないことこそが、忘却の国にいるということなのだろうけど。

→ プロフィールはこちら

北澤桃子(studio COOCA)

ご縁あって演劇センターFにて「バッカーズ公開会議」を開催させて頂く運びとなった。 
バッカーズとは障害者だからこそ、の魅力に取りつかれたおバカな福祉関係者・無関係者が集結した電撃障害者商品企画会議。略して「バッカーズ」。

演劇センターFのカウンターでは女の子がパンケーキを焼いており、関係者のお子さんだと思っていたら近所の小学生たちが日替わりでやってくるという。
演劇センターFでは子供たちとの関わりも、「場の思想をインストールしつつ、絶対的ルールはつくらず、そのときそのとき、その場その場の関係性で、つくられるルールがあるのみ」という市原さん。

全国的に広まっているアートで街づくりする活動。
アーティストやアートを介して人がつながるということは企てられたできごとであるはずだが、その関わりがとても自然に始まるのがアートやアーティストの持つ力なのかもしれない。 その、一石投じるアーティストの役割を、バッカーズがプロデュースしたい障害のある人も実は(既に)担っており、私たちサポートする側の工夫次第では、もっと彼らを街で活躍させることができるのではないか? との期待が膨ら んだ、演劇センターFとの出会いだった。

ということでバッカーズ会議にも普段出会えない職種の方々にもお越し頂くことができ、参加メンバーには大変貴重な体験となりました。
市原さんはじめ演劇センターの皆さん、ありがとうございました。

→ プロフィールはこちら

菅原直樹

岡山で「老いと演劇」の活動を始めたばかりの夏に、野村政之さんに声をかけていただき、横浜で山田亮太さんの戯曲『グランドペアレンツ』のリーディング公演に参加しました。

これまでの俳優人生でリーディング公演は初めてで、稽古の仕方がわからない上、演出家不在ということで、蒸し暑い自宅でとにかく戯曲を繰り返し音読したことを覚えています。2年間ほど本格的な舞台出演を休止していた俳優にとって、台詞を通じて自身の身体と向き合うその一時は、いいリハビリとなりました。舞台の上にただ「ある」ことがいかに困難であるかを実感しました。

そういえば、ぼくは横浜で生活していたころ、子供を授かり、介護の仕事を始めました。子供は「ある」から「する」へ、老人は「する」から「ある」へ。子育てしながら介護をして思ったことは、自分は「ある」に興味があって、それは演劇でも同じだということでした。

2014年の夏、横浜で、祖父母の老い衰えゆく姿を描いた『グランドペアレンツ』を、たった一人のリーディング公演として上演する。ぼくはこの戯曲との出会いに運命を感じずにはいられません。タイミング的にも場所的にも上演スタイル的にも「これしかない」と思えるような上演だったように思います。

しかし、「老いと演劇」はまだ始まったばかりです。この活動がさらに深みを増していったころ、再び別の上演スタイルで『グランドペアレンツ』に取りかかりたいと考えています。

→ プロフィールはこちら

鈴木励滋(地域作業所カプカプ所長 舞台表現批評)

9月6日に横浜市の外れにあるひかりが丘団地の小さな商店街の一隅で場が出会った。
たまたま縁があった地域に根を下ろし、行き交う人たちと丁寧に関係を紡いで十数年、木更津とひかりが丘でそれぞれ場を育んできた「井戸端げんき」と「地域作業所カプカプ」。「井戸端げんき」を牽引してきた伊藤英樹さんをお招きしての対談が、演劇センターFとの共催で実現したのだ。
「井戸端げんき」は高齢福祉の事業から障害福祉へと展開し、「地域作業所カプカプ」は障害福祉の事業所なんだけれど、3人に一人が高齢者という団地にある場所柄、インフォーマルにじいさんばあさんの世話を焼いている。
知り合った人が困難を抱えていたらお節介するというところが似ているのだけれど、関わる相手(世間では社会的弱者と呼ばれる人たちなんだろう)の魅力にやられてしまった人たちというところにおいて強く共鳴している。
これは、演劇センターFの市原幹也さんや藤原力くん、当日岡山から駆けつけてくれて登壇までしてくれた「老いと演劇 OiBokkeshi」の菅原直樹くんにも通底している。
倫理観からなどではない。場という契機に人と人が固有名を持つ者同士として出会い、そんな相手に惹かれ想うようになったというだけのことだ。倫理観からなどではない。そのような出会いには魂を揺さぶられるのだ。そんな遣り取りには生きているという手応えが満ちているのだ。やっぱり生きていてよかったねぇ、と互いに出会った相手のそこに在る奇跡を歓びあうために場はあるんじゃないだろうか。
とても残念なことだけれど、ちょっと油断すると存在そのものを否定されてしまう人たちがいるのもわたしたちの社会の現実で、否定される人は言うまでもなく、他人を蔑ろにして自らを保つような生き方だって幸せなはずがないんだから、こういう場はすべての人間からどうしようもなく必要とされているのだ。
だから、演劇センターFは、またどこかで立ち現れるのだよ。そうならざるをえない。これはもう理屈ですらないんだ。なるほど、どうりで演劇センターFはFate/宿命も内包しているわけだ。

→ プロフィールはこちら

武田力

糸電話プロジェクト『わたしたちになれなかった、わたしへ』試演会

伝説とは、消えて存在しないからこその伝説である。

217日という時間、数奇な運命を辿る街に〈そこ〉はあった。「演劇」を疑うことに、または「演劇」へひと欠片の興味も抱かない人間たちが―下は小学生、上は往年のこの街を暗躍したかつての黒服まで―訪れた。でも、〈そこ〉は消えてしまった。では、なにがここに言葉を連ねさせるのか?
「演劇」をぶち壊し、愛で以て育てた〈そこ〉を、こうして見も知らぬ誰かに語り継ぐ。いずれは〈そこ〉へ想いを馳せさせる人間となろう。伝説はこれから。〈そこ〉に纏わる演劇は、実はこれから始まる。

→ プロフィールはこちら

富永瑞木

自分は9月からの参加という、2回目の公募の際に応募してからの参加でした。
この2ヶ月ですごく感じたことは、“演劇は特別なことではなく、常に日常の地続きにある”ということ。
これは全てのアートにも同じことなのですが、とりわけ『演じる』という人間の身体をつかうパフォーマンスが主の演劇にとっては、なにか作品となったときより作品感(変な日本語ですね)が強くて、演じてないときの俳優=日常、演じているときの俳優=非日常、のイメージが強いように思っていました。
もちろん、そのこと自体が完全に間違ってるとは思いませんが、たとえば俳優ひとりひとりの生活の仕方、食事、物事の考え方、人への接し方、立ち方、等々は作品に影響するし、影響すべきものがアートであり、演劇なんだなぁ、と、黄金町にいた約2ヶ月で実感しました。

だから私としては、日々をていねいに生きることもとても大切なんだなぁと教わり、すごく勇気が湧いたし、でも背筋をピシッと伸ばされた経験でした。
またこのような機会があれば、間違いなく『やりたい!』とこたえると思います。

心残りは、最初から参加したかった!ということと、イベントは全部見たかった!ということです。次があれば是非リベンジしたいです。

→ プロフィールはこちら

中川ゆかり

どこかにあってほしい時間と場所、がありました。立ち寄る方ひとりひとりがあの場所に身体を置き、居合わせた人同士が「わたし」と「あなた」として、言葉や声や時間を交わす。少しずつ別の時間を織り込んでまた立ち去っていく。
俳優として3か月間、断続的に通い続けて少し長い時間あの場所に身体を置くことを繰り返すうちに、行き交う様々な時間と、場所の時間が熟成されていく様を存分に浴びました。おかげで一層待つ、聴く、見る、味わうことに貪欲になり、訪れるものやことを自分に反映することができた。それは訪れた人もきっと同じで、その人なりに身体はそれぞれ持ち帰ったはずです。浸透の過程はじわりとゆるやかで、きっとこれからじわじわ効いてくる、はず。こうしたことは日常的に誰しもの身体に起きていることだけれど、それを顕在化させる場所だったのではないかと思います。
私は俳優なので、これから身体を別の場所に置くとき、ここで起きたたくさんの「わたし」と「あなた」の出会い、「いつか」と「かつて」の邂逅を、自分の身体で少し遠くの誰かに手渡すことができるようになりたい。いま私は私を耕すことがこの場所、時間を経た自分の責任だと感じます。責任は重いし、こう扱うこともまた重いけれど、あくまでも前向きで、むしろ背中押してもらって手も引いてもらえた、みたいな明るい心持ちでいます。俳優としても人としても何にも代え難い、贅沢な時間でした。

→ プロフィールはこちら

西尾孔志(映画監督)

アンドロイド演劇の平田オリザさんが自らアンドロイドとなった近未来を舞台に、エスパーで批評家のヒロインが「劇場」を取り戻すため、ダースベーダーのような暗黒の力を手に入れたかっての師であるF・チカラと戦うSF映画のストーリーボードを、参加者と大爆笑しながら作った最高の思い出の場所、演劇センターF。僕の使命はこのストーリーではなく、あの場所を映画化することなのかもしれない。

→ プロフィールはこちら

新田佑梨

演劇センターFという場所について
だれでも気軽に立ち寄ることができる、開かれている場所。たくさんのひとが通りすぎていって、そしてたくさんのひとが興味を持ってくださったと思います。
ひとによっては交流関係においても場所のあり方としても発展的でした。なんとなくのぞいてみたことからはじまり、何度か来るようになり、そこで様々な人と知り合い、関係を築き、交流できる場所になっていきました。
あそこは、誰かが待っていてくれる場所なのだと思います。人がいること、場所があることが、それだけで引力になるのだなと感じました。
その一方で、本当にすべてのひとに開かれるというのは無理であるとも感じてしまいました。ひととひとの関係だから、もちろん万能ではないし、トラブルもあります。迷惑するひとが出てしまえば、その原因になるひとは受け入れられない場合だってあります。飲食店など、公共の場はもちろんそうです。誰かにとって「嫌な思いをする」場合に、それを甘受してしまっては「場所」として破綻してしまいます。
だから、「開かれている場所」の、その開かれている範囲というか、それはどこまでなのだろうとか、そういうことを考えました。

→ プロフィールはこちら

日夏ユタカ

 演劇センターFのメンバーである多田淳之介さんの作品を観にいった帰り、おなじくメンバーである市原幹也さんとのなにげない雑談から『競馬しぐさ』は生まれました。縁、ですねー。
 一方、『演劇パビリオン』なのに競馬!? みたいな違和感はじつはじぶんが一番あって、なにか言い訳のように寺山修司を絡めての告知をしました。もちろん、その共通項を伝えたい気持ちもあったのですが。
 ただ、前哨戦や本番に集まってくださった、演劇や音楽、美術に携わっている方々は案外と寺山への興味は薄く、結果的には、観客や競走馬のしぐさ/行動/修正を起点にして、けっこう本格的な競馬入門になったように思います。
しかも、かなり好評だったので、不安はほんとに杞憂でした。
 そしてなにより、正解/成功だったのは、野毛のウインズ(場外馬券売場)へのツアーを実施したこと。じつは、競馬ファンの常識として、競馬初心者を連れて行くならまずは競馬場(たとえばかわいい馬を実際にみられるという保険がある)、ウインズは禁じ手(ギャンブル臭が強すぎる)だったのですが、それを知りながらウインズへ行くことを強く奨めてくれた藤原ちからさんに感謝させてください。なにしろ、多くの方から競馬を楽しめた、興味をもてたという言葉だけでなく、ウインズへの社会科見学も刺激的な体験として評価してもらえたのですから。  もちろん、すべての参加者がそうだったわけではなく、あの空間に馴染めなかった方もいらしたようなのですが、それでも、ウインズ・ツアーを実施したからこそ、『競馬しぐさ』が「であう/まざる/めぐる」を掲げた『演劇パビリオン』のなかでしっくりと収まることができたようには感じています。
 また、縁といえば。今回の制作を担当してくれた横井貴子さんから乞われ、府中の東京競馬場で番外編として『競馬しぐさ』を開催できたり、一般参加だった大谷 薫子さんがこの体験を面白がってくれたのみならず、横浜のシェアオフィス/さくらワークスでの有馬記念のイベントを企画してくれたりと、その後にひろがっていったのもうれしい出来事です。『演劇パビリオン』は終わってしまいましたが、『競馬しぐさ』にかぎらず、その広場に集められたものたちは、いろんなひとの手に渡って、さらに遠くへと旅をしているんでしょうね、きっと。
 機会があればまた、持ち寄りましょう!

→ プロフィールはこちら

森麻奈美

日本画は、岩を砕いた粉である顔料を膠で溶くことで接着させて描く。
私にとって演劇センターFはその〝膠〟だったのだと、11月22日に震災を受けた故郷を訪れた際に痛感した。
長野市善光寺近隣は被害が少なく穏やかな空気で、「善光寺さんに感謝」という町の人の言葉を幾度も耳にした。あのエリアでは「善光寺さん」が膠となっている。近くにいても知り合いではない、そんなばらばらの人々が共有でき心を寄せられる、目に見えない力。繋がることが出来、かつ距離を置いて各自自由にいられる空気の源。
日本でほぼ失われた、稀有な感覚に思う。
演劇センターFはそれを取り戻すための演劇の場だったのではないだろうか。
演劇は生身の人間がそこに居る芸術。そういう力を持ちうるはずではないか?
毎日のように来ていたこどもたちは、最初はあまりにも粗く砕かれた顔料だった。一緒にはいてもどこかちぐはぐさが垣間見えたり、こちらと荒々しくぶつかったり。しかしあの場にいてあの場の大人や作品とふれあううちに少しずつ膠が足されていったように思えた。大小まちまちの粗い顔料が日々ここで練られて、色を創り上げていく過程をみていた気がする。
「まちづくりはひとづくりから」ー。創り上げられた色が彼らの成長に従い、十年、何十年とかけてまちに塗られるのを、楽しみに待っている。ここが何をなしたか、その深奥が見えるのはずっと先なのかもしれない。

→ プロフィールはこちら

山田亮太

私が演劇パビリオンに携わったのはただ一日だけでした。それでも演劇はとても長い時間続いているように思います。演劇センターFの野村政之さんから、戯曲を書いてみないか、と打診を受けたのは2012年の暮れのことでした(そのころはまだ演劇センターFは発足していなかったかもしれません)。約1年後、私は戯曲「グランドペアレンツ」の第一稿を書き上げ、野村さんに託しました。その戯曲のリーディング公演が演劇パビリオンの演目として上演されると決まったのは、それからさらに半年以上たったころのことでした。出演は、俳優で介護現場での演劇活動も行っている菅原直樹さん。私にとって菅原さんとの出会いは、2014年の最も重要な出来事のひとつとなりました。そしていま、リーディング公演を経ての第二稿を書き進めています。

先日、甥っ子が生まれました。こどものいない私にとって、甥っ子の誕生もまた2014年の格別な出来事です。いつか彼が演劇を見たりやったりできるくらいに大きくなったころ、この作品を見せることができたらいいなと思っています。

→ プロフィールはこちら

山本卓卓(範宙遊泳)

演劇センターFという言葉の響きがなんかアジトみたいでいいなと思います。
その場所にしかできないもの、土着的なもの、地域に密着したもの、そしてそこの彼らにしかできないもの。
そういった「場所」とのコネクションを高めていく中でうまれるものづくりに今僕はたいへん興味がありますし、たいへんに必要なことだと思います。
無意識的か計略的かはわからないけど「必要」に駆り立てられアジトをつくっているような感じがして、なんかいいなと思うのです。

→ プロフィールはこちら

渡辺美帆子(二十二会)

演劇センターFは素朴だ。「締め切りに追われた演劇批評家の展示」、「日常の上演」、「とおりすがり菜園」等々、イベントカレンダーを読むだけで、素材の味そのまんま! という感じのタイトルが並んでいる。
そこには、あえて“パフォーマンス”と呼ぶべきことは見当たらないし、ドラマらしき緊張感も見当たらない。演劇センターFに行くと、誰かが寝ていたり、お酒を飲んだり、大概ダラダラした時間をすごすことになる。そのダラダラは人間の潜在的な力を呼び起こすようなダラダラでもなく、日常とほとんど見分けがつかない形でダラダラが続く。 演劇は誰かが誰かの意見を代表して喋ることだ、とするならば、演劇センターFのダラダラは代表者が出てくる前のダラダラした時間にも見えるし、みんなが代表者になることをあきらめているようにも見えるし、そこにいる全員が代表者だと居直っているようにも見える。
そういえば市原さんは「まざる」という言葉が好きみたいだ。演劇センターFのコンセプトも「であう」「まざる」「めぐる」。 でも、私は演劇センターFの本質は「わける」ことにあるような気がする。そのダラダラに境界線が引かれ、空気が動く瞬間が一番面白い。例えば誰かが乾杯の音頭を取るとき、市原さんは音頭を取る人のことをじっと見ている。例えば場を閉会するとき、誰かが「縁もたけなわではございますが……」と発言するのをじっと見ている。発言者はどうやればダラダラした空気が変わって自分の方に注目を向けられるか、その人なりの工夫をして、その人なりの癖を発揮して発言をする。市原さんはそれをヒューマンウォッチャーの活き活きした顔で見ている。発言が終われば、発言者も再びダラダラした「まざる」状態に戻る。「わける」より「まざる」方が楽だから仕方がないけれど、演劇としては何ともダラシナイなあ、とも思う。 そういえば、演劇センターFの立地は川と線路の側だ。川の向こうとこっちの人でライフスタイルが違うというのはよく聞く話で、演劇センターFでも「大岡川を演出家市原幹也と劇作家岸井大輔と歩く」というイベントをやり、川と人々の生活を題材にしていた。
自然に「まざる」という中で、「わける」ということを求めるならば、不自然に「わける」のではなく、自然に「わける」為の環境が必要になるだろう。 人が「わけられる」のは過酷な状況にいるときだ。金持ち喧嘩せず、貧乏喧嘩だらけ。移動型の演劇センターFはこれからきっとますます過酷な環境に飛び込んでいくだろう。そんなことに期待している。

→ プロフィールはこちら

小川千尋

「演劇パビリオン」に運営スタッフとして参加

私が初めて演劇センターFを訪れた時は、どんな演劇が行われているのか、ほとんどわかりませんでした。演劇センターFで起こっている演劇は、センターに訪れる度に少しずつ穏やかに自分の感覚に入ってくるものでした。とても優しく穏やかで、かつ新鮮で、私にとって強烈な印象を残した日々でした。

中でも、近所の子供達とハロウィンイベントとしてお化け屋敷をやったことが一番の思い出です。昔は近寄り難い街の印象だった黄金町で、あんなに楽しく穏やかな体験ができたことは横浜で育った私には貴重でした。自分にとっては演劇としての発見と共に、地元横浜を見つめ直す大切な機会になりました。

久地岡聡志

演劇の広場の入り口のリノベーションデザインを担当

“きっと僕らは涙をこらえて 君のことなど思うだろ
いつかはじめて出会った 高架の下から
長い時間を僕らは過ごして 夜中にいつまでも呑んだりして
今は忘れてしまった たくさんの話をした
もし君がそばに居た あの眠れない日々がまた来るのなら?
山下埠頭を船が出てゆくと 君はずっと眺めていたよ
そして過ぎていく日々を 踏みしめて僕らはゆく”

と、ある歌を替え歌して口ずさんでしまういまの感じ。
演劇センターFの拠点となる箱づくり、舞台装置(拠点のリノベーション)を今回は手伝わせていただいた。勝手にFの大道具だと思っている(スケジュール的に押してしまった…ごめんなさい)。 イベントに観客としてほとんど参加できなかったのは心残りである。
が、ふと立ち寄ったときなどにFの面々と顔を合わせると、空間として充ちてきている感じが伝わり嬉しく思った。

リノベーションには多くの廃材を使った。予算的なこともあるが、破棄してしまうものの中にも、見方を変えたり、ひと手間を入れると素敵になるものがある。それって演劇センターFがおこした数々の演劇、その作り方と通じているんじゃないかな。
人がいてはじめて箱(建築)は生きる。
願わくば演劇センターFの再演がまたここであることを。

“もし君とともに居た あの眠れない日々がまた来るのなら”

竹本真紀

共催:黄金町アーカイブプロジェクトとして、「はつこひ商店会物語」シリーズに参加

黄金町のまちづくりの舞台となっている初黄・日ノ出町地区に関わって約5年。
まちの人たちとは仲良くさせていただいていますが、「アートはわからない。」「どうやって関わったらよいかわからない。」という声がきこえる中、じゃあ、こちらから迎えにいく仕掛けをつくろう。と、「まちあるき縁劇・はつこひ商店会物語」で演劇センターFの力を借りることになりました。
市原さんとは、近隣の長者町7・8・9丁目の企画で前の年から一緒にプロジェクトを行っており、それが今回の下準備にもなったかと思います。
実際の公演は、まちの人を魅力的に見せる仕掛けにとどまらず、まちの抱える深い問題にきりこんだものとなっていました。
その難しい部分を、丁寧に、わかりやすく来場者に可視化されていました。
特に、まちのキーマンである谷口商店の谷口さんと、永野鰹節店の一ノ瀬さんの見えない絆を目の当たりにしたときは身震いがしました。
私もある程度のミッションを課せられた状態で黄金町のまちづくりに関わり始め、容易でない部分はたくさんありましたが、この二人のおかげでまちに関わり続けることができています。
不平を言わずに自分から動く、そんな無口な二人の本心を引き出した市原さんの仕掛けに感動しました。
何かしら二人にとっても不思議な感覚があったようで、翌日私のところにかわりばんこで顔を出しました。
また、次回の公演も期待しています。

本田あかね

「演劇パビリオン」に運営スタッフとして参加

『演劇パビリオン』が終わって、もう一ヶ月以上が経つと思うと心がじーんとして何とも言えない不思議な気持ちになります。お手伝いをしている時も不思議な気持ちでした。
その “不思議な気持ち”。
正直に言うと、いまの私はまだ消化しきれていません。『演劇パビリオン』では日々色んなことがあっていました。限られた日数だったけれど、あのとき/あの場に確かに私はいて(遭遇していて)、それがいまでも私のなかでぐるぐるぐるぐるまざって、めぐって。
…それを言葉にして、いまコメントすることが出来ないことにどうしても自分の情けなさを感じてしまいます。
でも、いつかそれが私のなかでまざりめぐりきって、いつかのどこかの私そして誰かにつながっていくはずだから、焦らずにこの気持ちを抱えていたい。
そしてめぐる先でまた演劇センターF、『演劇パビリオン』に関わってくださっていた人々につながることが出来たなら。その道程は決して短くはないと思いますが、そう信じて、いま/ここの私はこのコメントを記します。

短い間でしたが本当にありがとうございました。
いつか、また、どこかで。

入江暢子

観客

私にとって演劇パビリオン、というか演劇センターFは、横浜における「憩いの場」だった。
それほど訪れた回数は多くなかったかもしれないが、演劇のトークイベントやエスニックナイトなど、 毎回アットホームで楽しく穏やかな時間を過ごすことができた。
私は、数年前まで20年以上横浜に住んでいたけれど、幼少期は東京住まいだったし、 私立の女子校に通っていたので、地元に知り合いがほとんどいなかった。
だからこそ「黄金町に行けば、気楽にぷらっと立ち寄れて、会うと嬉しい誰かに会えて、 楽しい時間がある。確実に」そう思えることはとても幸せなことだった。

去年までは演劇について、ほとんど知らない私だったけれど、 演劇センターFのメンバーとの出会いを通じて演劇に興味を持つようになり、 今まで知らなかった劇団の演劇を一人で観に行ったり、本を読んだりするようになった。
それは、自分の世界を広げる一つのきっかけとなり、世界は無限大だと思うようになった。
そして、人間って面白いって思うようになった。

そんな風に、多くのものを私の心に残してくれた演劇センターFが 黄金町バザールとともに物理的になくなってしまうのが、実はとても悲しい。
今でも、あの空間のあったかい空気が、いつでも温かく迎え入れてくれたみんなの笑顔が、心に蘇る。

いつかまた、あんな空間が私のそばにできることを願っている。

小森悠矢

観客

Fについて、ひとことでいうと
芸術と日常のあいだの居心地のいい空間でした。

芸術って日常なのかな、日常って芸術なのかな、 どっちかわかりませんが、楽しめたのは確かです。

こんな空間を日本にもっと増やしたいなって思って作戦練り中です。
それでは、またどこかでお会いしましょう。
ありがとうございました。

深野一穂

観客

演劇センターFは、三浦半島に延びる私鉄の高架脇にあった。今も演劇センターFは存在するが、拠点がなくなったので過去形にした。それは残念だが、照明が一時落ちただけだろう。

拠点はありふれた空間であった。過去に遡れば猥雑な空間であった筈だが置いておく。

しかし、子供も大人も、男も女も、演劇人もそうでない人も、気兼ねすることなくたむろしていたことを思い返せば、類い稀な空間に転じていた。喉が渇けばビールをラッパ飲みもしたが、行き交う言葉が知的な空間でもあった。片隅に座っているだけで楽しかった。

近くに野毛山公園がある。「野毛の山からノーエ」と歌われた野毛山だ。一角にある真新しい展望台は最近建て替えられた。作られたそもそもの理由を知らないが、今となっては場違いな感じもする。それは良しとして、足元の山裾が平坦になる辺りに拠点があった。

たまに展望台に上がる。町並みを眺めてソーントン・ワイルダーの戯曲「わが町」を思い出す。90年代初めに誰だかが、「この戯曲のリアリティが失われていく」と言った。高層ビルが林立するようになれば「わが町」でもない。拠点のあった初黄日一帯は、今も「わが町」の描く世界を色濃く残す。隣町の住人の感想だが。

そのような町に内包されたからこそ、演劇センターFは輝きを放てたとも言える。再び照明が当たるか否か、実はどちらでも良い。今は誰にとはなく「お疲れさま」とだけ言っておこう。